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日韓・朝鮮現代史~韓国の民主化運動~ [日韓・朝鮮]

今回は韓国の民主化運動を

1980年代、「ソウルの春」から見ていきたいと思います。


■つかの間のソウルの春(1979~1980)


大学を包囲していた軍隊が撤退。

軍も民主人事を迎える。

これからさあ、民主主義の始まりだ!


しかし、再びソウルは占領される。

軍人、陸軍少尉、チョン・ドゥハン(全斗換)


1980年、5月18日、軍部は全国に「非常戒厳令」を拡大。
⇒民主人事らを連行

クァンジュン市民は決起、市民軍、デモ隊⇒20万人に拡大

空輸部隊の攻撃⇒民衆蜂起⇒市民軍武装

数百人の死傷者を出す

4日間の闘争の後、軍隊は撤退

10日間の戦い

5月27日全南道庁が市民に明け渡される=光州開放。

最終的に死者 195名、負傷者 4782名、行方不明者 70名 

※光州事態、光州民主化運動、光州民衆抗争←呼び方で認識が変わる


五月運動へ

社会運動の変化:運動理念の急進化⇒反米運動の登場・・・70年代まではタブーだった


社会浄化運動
人間改造

維新憲法により、チョン・ドゥファン政権樹立(1980年9月)

しかし、民主人事と学生は、クァンジュ虐殺をほうじょしたとして、アメリカと全斗換政権に反発。

⇒検挙と拷問で強引に対応


■1987年6月 民主抗争 


「護憲撤廃・独裁打倒」


このデモは成功!

ついに民主化運動のゴール!


この時のデモに参加した、当時大学生だった世代を386世代と呼ぶ。


日韓・朝鮮現代史~中国朝鮮族について~ [日韓・朝鮮]

皆さんは、「中国朝鮮族」と呼ばれている人達を知っていますか?

僕は今まで知らなかったんですけど(汗)。

在日朝鮮人なら、知っていましたが、

「中国なのに朝鮮?どういうこと?」って初めはそんな感じでした。


今回はそんな、あくまで僕は知らなかった、中国朝鮮族について書きたいと思います。


中国朝鮮族とは、韓国系中国人、もしくは中国籍韓国人のことです。

同じような呼ばれ方の人々に、北朝鮮国籍の在中朝鮮人や在中韓国人とは区別されています。


ここ注意ですね(笑)。


ようするに彼らは韓国人や朝鮮人ではなく、「中国人」だということです。

中国朝鮮族=中国人


彼らのルーツは、1850年頃より、韓国人が中国・東北地方(間島)に移住し始めたことに端を発します。


移住の理由は単純に生活難だったみたいですね。


これを最初は当時の清も歓迎してたんです。

この頃清はこの地域の開発を急いでいtましたからね。


でも、そのうち彼らが日本の手先になることを恐れて、彼らに清への帰化を要請しました。

従わないものは排斥したそうです。


1928年、中国共産党満州省委員会は「朝鮮人を中国内の少数民族と看做し、 革命成就の暁には延辺に朝鮮族の自治権を認める」と決定しました。


(この延辺という地域は現在の吉林省で、今もここに朝鮮族の自治州があります。)


1932年頃、中国に住む韓国人は約67万名、そのうち中国に帰化した人は8万名だったといいます。

太平洋戦争後、 約220万名(めちゃ増えとる!)のうち100万名ほどが北朝鮮に移りました。


ここまで移民が増えたのは日本による「満州国」の建国が大きな理由です。

つまり日本による「政策的移民」だったわけです(在日だけでなく、ここも日本がらみだったんですね)。


中国に残った韓国人には、49年の中国革命において中国籍が 与えられました。


中国朝鮮族の歴史がここから始まります。


現在の人口は約200万人で、そのうち吉林省が 120万人、黒龍江省に45万人、遼寧省に25万人と、いわゆる東北3省に集中しています。

吉林省には延辺朝鮮族自治州があり、 総人口208万人のうち約40%を朝鮮族が占めています。

自治州にある龍井市、延吉市、和龍市、図們市等では総人口の 約60%ほどを朝鮮族が占めており、街中にハングルが溢れています。


とまあ大まかにこんな感じで、とにかく朝鮮族はその名とは関係なく「中国人」で間違いないわけです!


ただそのルーツが昔韓国からやってきたというだけで。


そしてその延辺の自治州には朝鮮族がいっぱいいて、特に多い市内だと、中国なのにハングルがあふれているという、たぶん何も知らずに僕たちがここに行ったら、


「え?ここ中国じゃくて韓国なの?」ってなると思います(笑)。


中国も多民族国家だということを、僕はつい最近まで知りませんでしたよ(汗)。


で、気になるのが彼らの中国内での立ち位置と、彼らが自分たちのことをどう思っているかということですね。


中国政府は基本的には朝鮮族の民族教育には保護政策をとっているようです。


でも、最近は都会の方で、漢民族の学校に通うと、ハングルが話せない朝鮮族の子供も増えているみたいですね。

というか、そもそも朝鮮族なのに、朝鮮語がしゃべれないから、民族学校の授業についていけない子が増えてます。

あとは交通費とか、進学とかの面でも漢族学校の方がいいと。

こんな感じで朝鮮族学校の廃止・合併が増加しています。


でも東北部の延辺の方に行くと、朝鮮語を第一言語として成長できる環境が残っています。

自治州の自治機関の文書は朝鮮語と中国語の併用で書かれています。


また、民俗舞踊など、民俗文化活動が盛んに行われています。

また、朝鮮語のテレビやラジオ番組までやってるみたいですよ!


そして彼らの意識の中では、自分たちのルーツは韓国や朝鮮でそれを誇りだとしながらも、

やっぱり「自分らの祖国は中国」だと思っているそうです。


ただし、彼らにいわゆる「法的地位」が認められたのは、

中華人民共和国が設立してからのことです。


それまでは、多くの「差別」を経験してきました。


1858年、中国ちロシアの間に締結されたアイグン条約の後、延辺地域へのロシアの侵攻危機が高まる中、

240年続いた東北地域への俸給政策が 完全に有名無実化したとき、

鴨緑江沿岸の東端に移住した朝鮮族は住宅所有権を認められず、中国人地主の小作人としての地位にとどまっていました。


(豆満江以北の地域に進出した朝鮮族の場合には、中国への帰化が認められ、これにより朝鮮族の土地所有も可能に)


また、1946~48年の国共内戦の頃は、国民党が朝鮮族を韓国人と規定し、在留権のみ認定し、居住権や入籍権を認めませんでした。

これに対し、中国共産党は朝鮮族の法的地位を全面的に認め、土地所有権取得などにおいて、中国人と同等の権利を行使出来るようになりました。


このような歴史的背景が朝鮮族にはあるのです。


そして現在は朝鮮族は教育水準は高いものの、少数民族であるからか、社会的に頭角を表しにくい状況にあるようです。


あと、実は韓国へ移住する朝鮮族も多くいるんですよ(なんかややこしい笑)。


2011年現在で44万7000人(帰化したのは7万5000人)。


最初は出稼ぎ的なのから始まって、

それから観光、結婚、ビジネス、密入国と、まあ今ではなんでもありですね。


まあ、韓国も1990年以降は労働者不足で、彼らを受け入れざるを得なくなったんですが、韓国では3D労働に従事する朝鮮族への差別意識が高いみたです。


これは社会問題化しています。


あと朝鮮族は日本にもいます。


ただし、日本では一般的な中国人としてカウントされてしまうんで、正確な統計は取れてないみたいです。

でも、おそらく5万人以上いるそうです。


このように単一民族国の日本にいてはあまりわからない(在日や部落の問題はありますが・・・)、

民族間の問題というのが、中国にはあるのですね。

日韓・朝鮮現代史~浅川巧に学ぶ~ [日韓・朝鮮]

現在日韓関係はとてもギクシャクしているようです。

2011年嫌韓・ヘイトスピーチが起き、首脳会談も開かれない状況です。


お隣の国とは仲良くしたいものですが、お隣だからこそ仲良くできないのも、この世の性なのでしょうか・・・。

しかし、現在僕が通う大学では、現在の日韓、そして北朝鮮との関係を、

感情論ではなく、またイメージでもなく、

極めて学術的に確かなデータをもとに研究し、また実際に韓国や北朝鮮をその足で訪れ、「真実」を見てきた多くの方々が毎週、様々なテーマで講演を行ってくれております。


本当に貴重なお話を毎回聞けています。


今回はその中から、日本ではあまり知られていない「浅川巧」という人物のことについて、お話したいと思います。


浅川巧は日本が日清・日露戦争に勝利し、1910年に「日韓併合」を行い、実質植民地支配を開始した時に、朝鮮に移住した稀有な日本人でした。


注目すべきことは、彼が当時、日韓の双方で評価された人物であったということです。


彼はなぜ朝鮮の人々や、文化に魅了され、また現地の人々からも愛されたのでしょうか?


彼のことについて、授業で学んだことについて書いてみたいと思います。

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彼は1913年から、朝鮮総督府の技術官僚として、今の韓国に渡りました。

そこで、韓国の山と、民芸をとても愛したことから、韓国人の心を捉えることになります。

当時山ばかりで木がなかった朝鮮の山々に緑を取り戻すために努力し、めざましい研究成果を発表するなどして活躍しました。


そして、そんな本業の傍ら、朝鮮の陶磁器を熱心に研究し、白磁と呼ばれる陶磁器の美をたたえました。

彼は朝鮮の文化を高く評価し、そして尊重しました。

その頃、多くの日本人が「朝鮮に学ぶものなど何もない!」という中で、彼はそんな朝鮮の白磁に魅せられたのです。


職場の同僚らとも、親密な付き合いをしたそうです。

彼の著書、「朝鮮民芸論集」の浅川の言葉からも、彼が本当に朝鮮を愛していたことがわかります。

「・・・私の問いに親切に答えてくれた朝鮮の友、数え切れないほどの多数の方々を一括してここに謝意を表し、なお親しみの一層加えらるることをねがってやまぬ。」


また、自身も総督府の官僚でありながら、総督府の城壁・城門の破壊を批判しました。


彼は、「自分らが同じ立場で江戸城を壊されたらどう思うか?私は日本固有の建造物の死を悼まずにはいられない。・・・それと同じことが今この京城で起きようとしているのだ」


そして彼は朝鮮人に対して、このような言葉も残しています。


「疲れた朝鮮よ、他人の真似をするより、持っているものを失わなかったら、やがて自身のつく日が来るであろう。このことはまた工芸の道ばかりではない。」


彼はその豊かではない収入の中から、貧しい子供たちのための援助もしました。


このようにして、浅川巧は多くの朝鮮人からしたわれたのです。


今彼は韓国の首都、ソウル郊外にある共同墓地に静かに眠っています・・・。
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はあーなんか、いい人ですね(笑)。

(笑)とつけたのは、すごい美談すぎて、なんだかな・・・と正直思うからです。


僕もこの日韓の問題に関しては、一応ですけど、今までいろんな人の意見や、見識を聞いてきました。

まあ、そんなに情報を吟味したり、自分で残ってる資料を集めたりしたわけではないですから、

完全にただ誰かが言ってたことを自分の頭の中に流しただけなんですけど(笑)。


それで、まあなんとなくわかったのは、もう「どっちが正しくて、どっちが正しくない」とか、そういうことを議論するレベルではないだろうということです。


慰安婦は強制じゃなかったとか、

日本は十分な賠償したかしてないかとか、

併合のおかげで、韓国は近代国家になったとか、

その中でも治安維持法でひどい目に会った韓国人が大勢いたとか、


本当に多くの研究者が、どんどん出てくる資料や、当時の関係者の証言などに当たって、様々な情報を私たちに届けてくれます。


でも、それを誇張して、ほら、やっぱり日本は悪くないじゃないか、いやいや韓国は本当に辛い思いをして・・・

とか「どっちが上か下か」みたいなことを協議したところで、ほぼ意味ないんじゃないかと。


「知らない」のはそもそもダメですけど、知った上で、もう僕たちは新しい時代を築いていく側なんですから、お互いにわかりあえる道を見つけていかないといけないんじゃないかと思います。


現に、この講義の講師の方々は皆その視点に立って物事を語っています。

わかっているんです。

いろいろ。

そしてこれからも知り続けるんです。過去のことを。

でも、今大事なのは、これからのこと、未来なわけです。


皆、建設的な、新しい歴史を築くためにこの講義を僕たちにしてくれていると感じます。


て偉そうに語ってしまいましたが、結局僕もようするにわからないってことなんですね。


ただたぶん、偏った見方をするのが一番いけないんだろうと・・・。


個人的にはよく、「韓国併合のおかげで、韓国は近代国家になれたんだ!」という主張がありますが、じゃあなぜ全員が全員この浅川巧のように感謝されなかったのか?


僕が今回わかったことは、韓国の人々も、自分たちに好意的な人物には好意をいだくということです。


たとえそれが日本人でも。


まあ人間そんなものですよね。


「あいつらは腐ってる」「人間としてゴミ」とか平気で言う人がいますが、それはおかしいでしょう。


ある人は愛され、ある人は嫌われる。

併合時に、「ひどい差別を受けた」「どうして自分の国で自国民が差別されるのか?」と、確かに苦しんだ人はいます。


人間ですからね。100パーセント同じ見方、感じ方をすることはないです。


理屈では割り切れないのが人間の心でしょ?


「半沢直樹超おもしれー!」て全員がいうわけじゃないですよね?

中には「いや、おれあれ嫌い。堺雅人嫌い。」的な人もいるんです必ず。

この日韓の問題は裁判して、どっちが有罪かの問題ではないと思います。


大事なのは確かにそこにいろんな「感情」があったという事実です。


事実、史実は一つですが、

それを当時「見て」、実際に「感じた」人々の心は無数にあったはずです。


確かに「あった」はずです。


そのことに想いを馳せるというか・・・。

何かもうわからないですが・・・。


複雑ですよ、めっちゃ・・・。


「想像力」を働かせたいですね、もっと。


特に僕たち若い人が、ね。


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